「監督としての野村克也は名将中の名将だったけど、現役時代はどんな活躍ぶりだったのかな?なんとなくだけど、三冠王を獲ったり、ホームラン数が多かったりしてたよね?」
そうですねぇ・・・正直「なんとなく」で収まるような選手ではないですからね、野村克也は!
野村克也の現役時代は「本塁打王9回」「打点王7回」そして「三冠王」など、パ・リーグの「王貞治」と言っても過言ではありません!!
また、現役23年で立った打席数は「10472打数」の「歴代1位」となっており、通算で10000打数以上だった選手は野村克也のみです!!
「ほえ~すごいねぇ。捕手って聞いてたから打撃は全然ダメだと思いきや、その辺の助っ人外国人より打ちまくってるよね!・・・野村克也って最強捕手じゃね?」
うん!ようやく気付きましたか!!
野村克也は非凡な打撃力と「ささやき戦術」という術で打者を翻弄し、ホームスチールを7回も決めている「走攻守」揃ったとんでもない捕手だったのです!!
しかし、これだけ活躍しているのにあまり認知されていない理由は、野村克也が活躍していた時代には「ON砲(王貞治、長嶋茂雄)」も活躍していたので、その陰に隠れてしまっていたのです・・・(泣)
こんな偉大な選手を陰に隠しておくのは非常にもったいないので、私は野村克也のファンを代表して、あなたに野村克也の素晴らしさをガッツリとお伝えしますよ!!!
まずは、南海ホークスで残した輝かしい成績を見ていってください!!
目次
野村克也の現役の成績は選手として南海ホークスに多大な影響を与えた!!
南海ホークスの歴代選手で「最強」なのが野村克也です!!
- 打撃開花へ、プロ1年目から16年目
- 南海の選手兼任監督として、プロ17年目から24年目
- ほぼ隠居状態、プロ25年目から27年目の現役引退
の3つでお伝えしていきます。
まずは、野村克也のプロ1年目から16年目までを見ていきましょう!
打撃開花へ、プロ1年目から16年目
南海電車に突っ込む勢いでした!!
野村克也のプロ1年目(1954年)は、南海で「9試合出場で無安打」という成績で、オフに「クビ」を宣告されますが「南海電鉄に飛び込んで自殺します。」と球団フロントを脅し、なんとか生き残ります(色んな意味で)
2年目(1955年)は二軍で辛抱し、3年目(1956年)から南海の正捕手として一軍登録され、4年目の野村克也は「打率.302、30本、94打点」の活躍を見せ「本塁打王」に輝きます!
徐々に野村克也は覚醒していき、8年目(1961年)から15年目(1968年)は「8年連続本塁打王」9年目(1962年)から14年目(1967年)は「6年連続打点王」を獲得し、南海の超強打者として名を轟かせました!
そして12年目(1965年)には「打率.320、42本、110打点」の成績を残して、野村克也は「三冠王」に輝くことが出来たのです!!
野村克也の20~30代前半はまさに「全盛期」ですね!
こんなに打てる捕手は、これまでのプロ野球選手にいなかったんじゃないでしょうか?
ということで、野村克也は「最強捕手」ということで問題無いと思うんですけどねぇ・・・あなたはどう思いますか?
南海の選手兼任監督として、プロ17年目から24年目
パ・リーグの「王貞治」も年には勝てませんでした・・・
プロ17年目(1970年)に野村克也は「選手兼任監督」に就任し「選手、監督、捕手」と重責が増えてしまいましたが、それでも「打率.295、42本、114打点」と好成績を見せ、兼任でも問題無いことを見せ付けました!
その後も、24年目(1977年)までに「2ケタ本塁打」を継続させ、もう少し南海で兼任監督を続けられたのですが、24年目のシーズンで「残り2試合」残っていた状態で「クビ」を通告されてしまいました・・・
クビの原因は、野村克也の恩師「鶴岡一人元監督」との確執や「チームへの公私混同(詳しくは後の項で)」らしいです・・・
私としては野村克也がクビを宣告されたタイミングは「ベスト」だと思いました(汗)
もう24年もやれば満足かと私は思いましたが、南海から追い出される感じでクビになってしまった野村克也は「プロ野球引退」への踏ん切りがつかなかったのでしょう・・・
ほぼ隠居状態、プロ25年目から27年目の現役引退
選手というより「相談役」状態でした!
野村克也のプロ25年目(1978年)はロッテからスタートし、試合に出ることより「若手に色々教えてやってくれ」と当時のロッテ監督「金田正一」から言われ、その通りに若手への指導を始めました。
しかし「コーチがやりにくいと言っている。悪いが、教えるのはやめてくれ。」とまた金田正一から言われたりして、正直野村克也はロッテに居場所がありませんでした(悲)
結局、ロッテをクビになってしまった野村克也ですが、翌年の26年目(1979年)は西武でのスタートとなり、代打での出場ばかりとなってしまいました(泣)
そして、27年目(1980年に「打率.217、4本、14打点」の成績を残し、野村克也は「現役引退」となりました・・・
うーん、ロッテ時代は野村克也が余りにも「有能」すぎるから、首脳陣が嫉妬してしまったんでしょうね(笑)
成績は残せませんでしたが、野村克也から影響を受けた選手は結構いるんじゃないですかね?
ちなみに西武時代に使用していたヘルメットは「清原和博」が受け継ぐ形となりました・・・
27年間の長期に渡る野村克也のプロ野球人生でしたが、実は、1年目からクビを宣告されてしまうような「よくいる選手」の一人だったみたいですね(汗)
しかしそんな選手が、どのようにして「三冠王」を獲得出来るような「大打者」へ進化したのでしょうか?
実は、野村克也の成績上昇の裏には「とある秘策」があったのです!!
では「ID野球」に繋がる野村克也の秘策を、私と一緒に見ていきましょうか!
野村克也の現役の成績は研究に研究を重ねて三冠王に輝くことが出来た!!
「ID野球」の基本となった出来事でした!
野村克也はプロ5年目から、他球団からのマークがキツくなり「徹底的な内角攻め」と「カーブボール」に悩まされることになりました(苦難)
しかし翌年のプロ6年目に「バッティングの化学」という本に出会い、
「投手は球種によりモーション時にクセを見せる」
という言葉に野村克也は感銘し、その後、徹底的に「投手のクセ」を盗み(時にはビデオカメラも使用)」「内角攻めとカーブボール」を克服するのでした!
結果、野村克也は「8年連続本塁打王」と「6年連続打点王」の現在もパ・リーグ記録となっている圧倒的成績を残すことが出来たのです!
また、投手のクセを盗むことは打撃だけにはとどまらず、足が遅かった野村克也でも「三盗2回」「ホームスチール7回」を記録することが出来ました!
この野村克也の手法は、現在のプロ野球選手にも見習って欲しいですよね。
どんな投手にも「クセと言う名のスキ」がありますから、センスのない打者はそういったところをどんどん攻めていって、私が納得するような成績に変えていって欲しいです。
プロ野球は「センスだけでは食っていけない」世界ですから「長嶋茂雄」のような「感覚」がない限り、野村克也や「イチロー」並みの努力をしていかないと、ダメだろうーと私のような素人でも思いました。
長嶋茂雄の現役の成績が凄い!計算不能な打撃センスと長嶋語録を徹底紹介!
また野村克也は、自分で極めた「クセを盗む」という手法を「ID野球」に置き換えて、後の監督としての采配に利用していくんですからねぇ「野球に対する考え方」は本当に立派だと私は思いました!
そんな立派な野村克也ですが、捕手としても多々活躍しており、そこで際立っているのが「ささやき戦術」という術なんですが、果たしてどんな効果があったのでしょう!?
・・・もしかしたら、多数の術を使う「忍者」でも度肝を抜くような術なのかもしれません・・・
野村克也の現役時代は捕手として打者を揺さぶるささやき戦術を駆使していた!!
精神攻撃は野村克也の「必殺技」だったのです!!
野村克也と言えば「ささやき戦術」というのは周知の事実ですが、では、実際にその戦術とはどういったものだったのでしょう?
「試合中に汚い言葉や挑発で相手選手の心理面を揺さぶる!」
これが「ささやき戦術」であり、野村克也は打者に対して「次は頭にいくでぇ」「当たったら痛いだろうなぁ」と「ヤクザみたいな」脅し方で、打者を翻弄していました(怖)
この行為が、他球団の監督に「先に野村にぶつけろ」と「売り言葉に買い言葉」状態に発展してしまったので、野村克也は脅しによる「ささやき戦術」は止めることにしました(安心)
しかし、野村克也はささやき内容を「打者のプライベートをイジる内容」に変更し、プロ野球選手が行きそうな「高級クラブ」に出向き、ホステスから選手情報を聞き出していたらしいのです(探偵)
野村克也は「ささやき戦術」を使い、多くの打者を凡打に導きましたが、安打製造機「張本勲」には戦術を使わなくなりました。
「空振りのふりをしてバットでガツーンと叩いてやりました!二度とやらなくなりましたけどね。」
と張本がサンデーモーニングで言っていたのですが、実は野村克也曰く、
「張本が繊細すぎるため、なかなかバッターボックスに立ってくれないらしく、試合時間が長引く。」
と言うデメリットがあった為に、やめたらしいのです(笑)
どっちが本当なのかはわかりませんが、張本が「見栄」をはった可能性が高いと私は見ています!
正直この「ささやき戦術」はフェアプレイに反しているような気がするんですが「勝つ為にはこれしかない!」と選んだ野村克也の「決断」を私は支持することにしました(結果を出しているので)
こんなことをしてまで、南海ホークスに貢献してきた野村克也ですが、実は球団との確執が発生していたのです・・・
それは野村克也の「とある行為」が原因となったらしいのですが、果たして真実は・・・
野村克也と南海ホークスとの確執の真実とは!?
野村克也の「愛人」のせいでした・・・(泣)
野村克也は南海時代に「伊東芳枝」という愛人がいたそうですが、実はこの愛人が、
「再三にわたり、チームや選手に対する口出し」
を行い、これに堪忍袋の緒が切れた南海は、24年間もチームに尽くしてくれた野村克也にクビを言い渡したのでした!!
また野村克也は退団時のインタビューで「鶴岡元老(鶴岡一人)らOBの政治的圧力があった」と発言しており「愛人だけのせいではない!」という見方もあるみたいです。
つまり野村克也は、恩師であった「鶴岡一人元監督」に嫌われてしまったから、愛人をクビの「理由」に使われてしまった!と「予想」していたのです!
・・・もうお気づきかと思いますが「伊東芳枝」という女性は「野村沙知代(サッチー)」であり、後の野村克也の嫁だったのです!!
サッチーは、南海の球場に何回も出入りし、選手にあれやこれや指示していたみたいですから、選手からしたら「なんだこのおばさん・・・」と変な空気になってしまうことは私だって想像できます!
また、鶴岡一人が野村克也のクビに関わっているという予想は「野村克也の勘違い」かなーと私は思いました(笑)
野村克也はサッチーがやっていたことが「悪いこと」だと認識出来なかったので「んじゃ、誰が悪いんだ?」という「責任転嫁」の思考が生まれてしまったと考えられます。
そして、野村克也が色々と考えていくうちに鶴岡一人の名前が出てきてしまったんじゃないかと私は予想してます。
この「嫁が球場を出入りする」という光景は、監督時代でもありましたからねぇ・・・
まあ・・・サッチーに対する野村克也の「愛情」が深いことはわかりましたよね?(笑)
ただ、愛情以上に野村克也は金欲が凄かったらしいのです!
野村克也がどんだけ豪遊していたのか貧乏人を代表して私が見に行きますので、あなたもついてきてくださいね。
野村克也の現役時代の金遣いの荒さはプロ野球随一だった!!
最終的にはサッチーに管理されてしまいます(無念)
野村克也は南海で活躍するようになってから、多額の給料が入って来たので、超一流ブランドの衣服、時計、装飾品を毎週のように買い込み、スーツは250着、ネクタイはその倍持っていたと言われています(豪遊)
また、サッチーと同居した際は「トラックに衣服を詰め込んで」野村克也は家にやってきたみたいです・・・
しかし、サッチーと結婚してからは「現金は持たせてもらえず」野村克也はクレジットカードのみ持たされていたのです・・・
しかもクレジットカードの仕組みが分かっていなかった野村克也は、店で時計などを眺めていると「サインください(クレジットの明細書)」と言われ、訳も分からずサインをしてしまい、
「カードを見せてサインをしただけで、なんで商品をくれるんだろう?」
と当時は思っていたらしいのです(ド天然)
まあ、でも、サッチーという野村克也公認会計士が出来て、豪遊に歯止めがかかり、クレジットカードの使い方も(痛い目を見て)わかるようになったので、よかったんじゃないですかね(笑)
ちなみ私はクレジットカードを持っていなくて、理由としては「際限なく使う」からです(笑)
なんかクレジットカードを持ってた方が「得」とよく聞くのですが、果たして本当なのか誰か教えてくださいm(__)m
野村克也の現役の成績は文句なし!ON砲の陰で球史に刻んだ大記録とは!?のまとめ
最後まで読んで頂きありがとうございます。
野村克也の現役時代を一緒に見てきましたが、どう見ても「南海ホークスの代表選手」ですよね?
ただ、南海とは「不穏」な別れ方をしてしまったので、現在でも「野村克也の南海時代」は「黒歴史」になっている可能性が高いです・・・
プライベートでは少々問題がありましたけど、プロ野球選手としては「王、長嶋」がいなければ「最強のプロ野球選手」として野村克也は、世に知れ渡っていたはずなんですよ!!
でも野村克也曰く「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。」と言っていたので「ON砲あっての、野村克也」なのかもしれません・・・