「打撃の神様と言えば川上哲治であることは俺でも知っているんだけど、成績を見るとイチローより打ってないじゃん!と思ったんだけど、実際はどうなのよ?」

これは、川上哲治の現役時代は「投手が強くて打者が弱い」時代だったんで、川上哲治がイチローより劣った成績でも、実は「イチローと同じ」ぐらいの成績だったと私は思っています!

また、川上哲治の成績はイチローより低いですが、通算打率は「歴代5位の.313」なので、とにかくその辺の選手とは訳が違う!ということは、わかってもらいたいですね!

「そうなの?・・・まあ確かに、イチローと比べてしまうと川上哲治が下に見えるけど、打率に関してはイチロー以外だったら誰にも引けを取らない成績だね。うん。」

そうなんですよ、川上哲治は「首位打者5回」「最多安打6回」などの偉大なる記録を持っていますし、また当時のプロ野球で「初の2000本安打」を達成していますから、本当に「打撃の神様」だったんですよ!

しかし、神様とは言え川上哲治も若いころは「軍隊」で色々とやらかしたらしく、あくまでも「打撃の」神様なんですよね(汗)

野球以外では少し問題があった川上哲治ですが、現役時代の成績が素晴らしかったことは確かなので、私と一緒に川上哲治の神域に触れてみましょうか!

巨人=常勝軍団という「答え」を導き出したのは、川上哲治の活躍があってこその「結果」だったのです!

川上哲治の現役の成績は巨人という球団の礎となる偉大な結果だった!!

打率に関しては、巨人の選手で最強!!

最強の名をほしいままにした川上哲治の球史を、

  • 戦前の巨人軍!プロ1年目から5年目まで
  • 戦後の巨人軍!プロ6年目から18年目の現役引退

の2つでお伝えします。

まずは、戦前の川上哲治から見ていきましょう!

戦前の巨人軍!プロ1年目から5年目まで

投手兼任で、首位打者を獲得していました!

川上哲治は「セ、パ」の2リーグが無い時代(1938年)から「東京巨人軍」に入団し、投手として登録されていました。

しかし、川上哲治の利き腕(左)はすでにボロボロであり、投手としては使えない状態だったので、基本的には「野手」としての出場が多くなっていきました!

ボロボロとは言え二刀流状態だった川上哲治は、プロ2年目と4年目に「首位打者」を獲得し、若手ながらも巨人の中心打者として仕上がっていきました!

そして「第二次世界大戦」が始まり、1944年に川上哲治は「陸軍少尉」として、部下の指導に取り組んでいました。

・・・なんか、凄い時代ですね、川上哲治は19歳で「首位打者」24歳で「陸軍少尉」ですから、本当に激動の時代だったんですね・・・

そんな時代から野球をやっていたからこそ、川上哲治は「打撃の神様」として、多くのプロ野球ファンに認められた存在となっていったのでしょう(神格化)

戦後の巨人軍!プロ6年目から18年目の現役引退

「打撃の神様」として、様々な記録を樹立していきました!

戦後のプロ6年目(1946年)に、川上哲治は「銀座の運動具メーカー」から「赤バット」をプレゼントされ、それを試合で使うようになりました。(このシーズンの打率は.305)

翌年以降は赤バットの使用を禁止されてしまい、川上哲治は1年で赤バットに別れを告げました(短)

その後の川上哲治は、プロ11年目(1951年)には「.377」13年目には「.347」15年目には「.338」と高打率で「首位打者」を獲得し、赤バット無しでも実力を発揮することは出来ていました!

そしてプロ16年目(1956年)には「日本プロ野球史上初の2000本安打」を達成し、川上哲治の「打撃の神様」の異名は、戦後の日本へ瞬く間に広まっていきました!!

しかし、打撃の神様も年を重ねると成績が落ちてしまうのは他の選手と同じであり、川上哲治はプロ18年目(1958年)に「打率.246、9本、66打点」という成績で、現役時代に終止符を打ちました・・・

戦後の川上哲治はとにかく人の何倍も練習に打ち込み、ある時には「ボールが止まって見えた」という発言もしていたことから、野球漬けの日々だったんでしょう(中毒)

ベースボールジャンキーだったからこそ、川上哲治は神域に登る詰めることができ、我々一般人では「見ることが出来ない世界」が見えたんだと私は声を大にして言いたいですね!

川上哲治の持論は「限界の更なる限界」ってことだと私は思いました!

川上哲治は「天才でも努力の天才」であり、その点に関しては「イチロー」と似ているんだなーと私は感じました。

やっぱり長年に渡って高打率を維持するためには「相当の努力」が必要なことを、川上哲治は多くの野球ファンに伝えることが出来たはずです!

しかし、川上哲治の通算打率は「.313」となっており「打撃の神様」にしては、少し物足りないと思っているファンも少なからずいることでしょう。

では、私が川上哲治の打率は「スゲーんだぞ!」という所をお伝えしますので、次の項へ進んでください。

川上哲治 現役 成績

川上哲治の現役の成績は投高打低の時代で2000本安打を達成した「打撃の神様」だった!!

この時代の投手成績では、なかなか打てないはずなんですが・・・

川上哲治が現役時代を過ごした「1938年から1958年」の期間は「投高打低」の時代だったと私は推測します!

その理由は、当時のプロ野球全体の投手成績を見て、私はとあることに気付いたのです!

それは「チーム防御率が2点3点台」は当たり前で、しかも「防御率1点台」の投手の割合が高かったことです!!

投手の防御力が全体的に低いということは「投手のレベルが高かった」もしくは「打者のレベルが低かった」ことを示しているのです。

つまり川上哲治は、現在でも打つことが難しいとされている「打率.300」を、この「投高打低」の時代に達成しており、しかも通算打率も「.313」という破格の数値を記録していたのです!!

また、川上哲治は「2000本安打」を「1646試合」で達成しており、これはぶっちぎりの歴代1位ですから(2位は1922試合の「山内一弘」)最速でヒットを量産していたことがわかってきましたよね?

以上の結果が、川上哲治を「打撃の神様」と呼ぶべき理由、ということになります!

決して、一部の熱狂的巨人ファンが川上哲治を勝手に「神格化」していないことは分かって頂けたと思いますが、ただ、本塁打に関しては「原辰徳以下」だったということも覚えておくといいかもしれませんね・・・

原辰徳の現役の成績は4番が定位置!では長嶋茂雄を超える選手だったのか?

川上哲治は「安打特化型選手」ということがわかったので、次は1年だけ使用していた「赤バット」について見ていきましょう!

川上哲治の赤バットには一体どんな特殊効果があったのでしょうか!?

川上哲治が赤バットを使用していた理由を独自目線で鋭く分析!!

戦後の日本に勇気を与える為ではないでしょうか!?

川上哲治は、銀座の運動具メーカーから「赤バット」をプレゼントされたことは既にお伝えしましたよね。

メーカーが何故、川上哲治に赤バットをプレゼントしたのかは不明となっておりますが、一説では「バットの後ろにボールを通さない」という「赤信号」の役目を果たす為、と言われていたみたいです・・・

しかし、赤バットも1年間で使用禁止となってしまい、理由としては「ボールにバットの塗料がついてしまうから」という、戦後ならではの「粗悪品」として扱われてしまった為です(残念)

その1年間だけでも川上哲治が赤バットを使用していたことは、戦後の多くの日本国民に知れ渡ることとなりましたよね。

結果、川上哲治の試合での雄姿を見て「俺たちも頑張ろう!!」と多くの人に「勇気」を与えたのではないかと私は思いました!

赤と言えば「赤紙」を思い出してしまう人も、意外といたんじゃないのかなーと無粋な事を言ってしまう私ですが、また話を戦時中に戻してみましょう(汗)

実は、川上哲治は戦時中に「教官」をしており、指示する立場の軍人だったのですが、どうもその指示方法が「よくなかった」と言われているのです。

巨人の監督として名将になる予定の川上哲治が、軍人として何をやらかしてしまったのでしょうか!?

川上哲治 現役 成績

川上哲治は軍隊では名将とは程遠い存在だった!?

証言者は、俳優の丹波哲郎です!

川上哲治は戦時中に「航空整備学校の教官(陸軍少尉)」の肩書きを持っており、部下には、俳優の「丹波哲郎」がいました。

少尉としての川上哲治の振る舞いは「上官には媚まくり、部下には厳しく当たっていた」そうで、上司の風上にも置けない川上哲治だったのです!

また、丹波哲郎は川上哲治から暴力を受けており、丹波哲郎の著書の一文に、

「軍隊時代に上官だった川上からリンチを受けていた。」

と書かれていたので、川上哲治の軍隊での振る舞いは「事実」だったんだなーと私が思いました。

ただ、川上哲治を100%を擁護する訳ではありませんが、この時代の軍隊なんて「殴る、蹴る」は当たり前だったように私は思えます!

なので、川上哲治が「特別おかしい」のではなく、日本軍全体が「部下に対する態度が酷かった」のではないかと予想しています・・・(汗)

だからと言って、川上哲治のやってきたことは「謝罪」するべきことですし、

「終戦後に川上が『あのときは仕方なかった』と頭を下げて廻り」

と丹波哲郎の著書に書かれていたので、川上哲治は謝罪の意を示したことになりましたが、一説では・・・

「銃撃戦になったら背後から撃て!!」

と、川上哲治の部下に上記の文章が出回っていたらしいので、恨みは相当買っていたのでしょう・・・

巨人の監督としては、川上哲治のこんなエピソードが無いことを祈っています(あったら書きます)

そんな川上哲治の背番号「16」が「永久欠番」であることは周知の事実ですが、実はその背番号を引き継いだ選手がいたことはご存知でしょうか?

次の項は「ひろーい視野」で見てもらうことが大切なので、野球ファンのあなたには温かい気持ちで見て頂きたいです(懇願)

川上哲治の背番号16を引き継いだ選手が巨人に存在していた!?

現実に近い野球漫画・・・それが「巨人の星」なのです!!

青雲高校を退学となってしまった「星飛雄馬」は、父一徹の「入団すべき球団は巨人あるのみ」の言葉に従い、川上哲治率いる巨人軍の「入団テスト」を受けます。

飛雄馬のライバルとして「速水譲次」という選手が現れますが、妨害ばかりしてくるので飛雄馬は一徹直伝の「魔送球(妨害の一種)」を使い、速水を返り討ちにして、見事、テストに合格したのです!!

1967年秋、それまで巨人の永久欠番だった川上哲治の「背番号16」を飛雄馬に引き継がせることになりました・・・・・・完

ここで野球ファンのあなたに質問ですが「星飛雄馬」と「元木大介」どちらが知名度の高い巨人の選手だと思いますか?

・・・そうですよね「星飛雄馬」ですよね!だから私は、川上哲治の背番号を引き継いだ「唯一無二」の選手として紹介させてもらいました!!

ちなみに「星飛雄馬」のスキルで素晴らしいと思ったのは「スクリュースピンスライディング」という「一種の守備妨害」で・・・

と、話し始めると止まらなくなるので、ここらでやめておきますが、とにかく川上哲治の永久欠番を引き継いだ星飛雄馬も、川上哲治並みに凄かった!!

と、いうことです!!!!

川上哲治 現役 成績

川上哲治の現役の成績は神域!打撃未踏の地を次々と開拓した神技に刮目!!のまとめ

最後まで読んで頂きありがとうございます。

川上哲治の激動の現役時代を見てきましたが「打撃の神様」で問題無いことはわかってもらえたでしょうか?

また、途中で川上哲治のダメなエピソードや巨人の星に流れてしまいましたが、巨人という常勝軍団の基礎なった川上哲治の功績が「巨人の星」だったのかもしれませんね。

川上哲治と言えば監督としてばかり目がいってしまいますが、私の紹介によって川上哲治の現役時代は「すげぇ!!」ということがわかってもらえれば問題ありません!!

次回は、お楽しみの「川上哲治のV9時代!!」でお会いしましょう!!