「やっぱり川上哲治は、巨人の監督・・・いや、プロ野球の監督としてまさしく最強の名将だと思っているんだけど、なんか逆に、川上哲治の意外な部分を知ってたりする?」

そうですね、川上哲治の名将らしからぬ「行為」というのは、耳に入っているんで、多少はお伝えできるかもしれないですね・・・

しかし、そんな粗探しより、川上哲治の偉大なる監督の成績を見てもらった方がいいと私は思っているのです!!

例えば、川上哲治は「V9、V9」と騒がれていますが、巨人がリーグ優勝した時は「全て日本一」だったので、実際は「V9+2」の日本一を達成しているんですよ!!

「え?つまり、川上哲治は巨人を11回も日本一にしたってこと?あと、日本シリーズ負け無し!?・・・凄すぎじゃん!!日本シリーズで無敗の監督は川上哲治だけだな!スゲェ!!」

川上哲治率いる巨人が、日本シリーズで「負け無し」だと語弊があるので「出場したら必ず日本一になる」に置き換えてくださいね(汗)

まあ、川上哲治が「11回の日本一」に輝いているのは事実であり、2016年までに巨人が日本一になった回数が「22回」ですから、半分以上は川上哲治のおかげということになるんですよね!

・・・と、言っても川上哲治が指揮を執っていた巨人は「王、長嶋」を始めとする「V9戦士」が揃っていたので「戦力が十分」だったのも事実ですからねぇ。

なので、川上哲治がその戦力を「どう上手く使って」「巨人最強黄金時代」を築き上げたのか、具体的な実績から見ていきましょう!!

これが、川上哲治の野球の全てなのです・・・!!

川上哲治の監督の成績はどれだけ優勝すれば気が済むのか!とむしろ疑うレベル!!

成績から見た川上哲治は、もはや雲上人の存在だった!!

とにかく巨人を優勝させたかった川上哲治の監督時代を、

  • 優勝必須!監督1年目から4年目
  • V9時代の幕開け!監督5年目から14年目

の2つでお伝えします。

まずは、監督1年目の川上哲治を見ていきましょう!

優勝必須!監督1年目から4年目

実は巨人は弱かった!!

1961年、川上哲治は巨人の監督に就任すると「長嶋茂雄」以外にはロクな戦力がおらず、投手陣も「エース不在」という状態で、巨人が「優勝に遠い存在」だということが分かりました・・・

これを打開するべく、川上哲治は「ドジャースの戦法」という書籍を参考にして、選手に「考えさせる野球」を染み込ませていきました。

この結果、川上哲治の監督1年目は「チーム打率最下位」でありながら「リーグ優勝と日本一」を達成し、川上哲治の采配が正しかったことを証明しました!

その後も「4位、1位(日本一)、3位」と川上哲治は結果を出すことに成功し、巨人の監督として「絶対的存在」となっていきました!

しかし「川上哲治を含む首脳陣には絶対服従」という選手にとって「とても厳しい」掟が存在しており「エリート選手しか生き残れない」環境だったと私は思っています(弱肉強食)

この時代の巨人というのは、そんなに戦力が整っておらず「山田哲人が活躍した2015年のヤクルト」みたいな戦力だったと私は予想しています!

その戦力に川上哲治の「極めて厳しい」指導法が加味されたので、巨人は優勝を狙えるチームになることが出来たのでしょう!!

・・・そして、ここに「強大な戦力」が加わると、どういうことになるのかは、野球ファンのあなたであればもう察していると思います・・・

V9時代の幕開け!監督5年目から14年目

巨人に優秀な選手が集まってきます!

川上哲治の監督5年目以降は「王、長嶋の存在」や「堀内恒夫」「高橋一三」などのエースの獲得、そして優秀な捕手「森昌彦(祇晶)」を獲得していき、戦力の増強に成功していました!

また、それらの戦力に対して、これまで続けてきた川上哲治の指導法が加わり、選手一人一人が「強い」存在へと昇華していきました!

その結果、巨人は1965年から1973年の9年間で「全て日本一」いわゆる「V9」を達成し、川上哲治の巨人は「最強」ということを世にとどろかせました!!

しかし、勝ちすぎるあまり、川上哲治は「おもしろくない」とファンやマスコミからバッシングを受けるようになり、V6を達成した辺りから「監督退任」を考えていたのでした(悲)

そして、1974年の監督14年目に「2位」となり、また監督候補だった長嶋茂雄の引退が重なった為、川上哲治は「監督退任」を決意したのでした!!

確かに9年連続で巨人が日本一をとってしまうと、巨人ファン以外からは「つまんねぇなぁ」と思われても仕方がないですよね(汗)

それでも「V9達成」という偉業は本当に凄いものですし、川上哲治の想い(ワガママ)を受け入れた選手が多かったからこそ、V9は「伝説の記録」ということになるんじゃないでしょうか?

現在のプロ野球選手と環境では、川上哲治の想いに応えてくれることは「ほぼ無理」でしょう、厳しすぎますから・・・

川上哲治のV9達成は「厳しい練習とそれに耐えた優秀な選手」の組み合わせによる結果が、一番の要因だと私は思っています。

あとは「王さんと長嶋さんが頑張って練習しているから、俺たちもやらねーとな!!」と見本となった、王、長嶋の存在が大きかったこともV9達成の一因かなーと思います。

もちろん、川上哲治の指導は厳しいだけでは無く「この時代のプロ野球にはなかったこと」を選手にやらせていたので、勝てるチームに変化していった側面もあります!

では、川上哲治が選手に課していた「管理野球」の詳細を見ていきましょう!

その「管理野球」の裏には、負けず嫌いな川上哲治が存在していました!!

川上哲治 監督 成績

川上哲治の監督哲学は管理野球と自身の負けず嫌いが基本となっている!!

軍隊レベルの指導法だったのです!!

川上哲治の監督哲学は「管理野球」と「負けず嫌い」から来ていると私は思っています。

まず、川上哲治の管理野球についてですが「ドジャースの戦法」という書籍を基本とし、中身にそって選手に指導を行い、また選手全員のプレーに対して「点数」をつけて管理するという方法なのです!

例えば「長嶋は打撃は90点だが、守備はよく考えてやっていないから65点だな」

と、プレーの結果だけではなく「結果までの過程」も評価しており、川上哲治は「ドジャースの戦法に見合った考え方が出来ているか?」という採点基準だったと私は考えています!

また、この書籍のおかげて「ヒットエンドラン」や「バントシフト」などの、現代のプロ野球でも使われている戦法を川上哲治は初めて実践したと言われています!

つまり、上記のような画期的な戦法を取る為には「感覚的に野球に取り組むんじゃない!考えろ!!」ってことを、川上哲治は選手に伝えたかったはずです!

また、川上哲治は「相当の負けず嫌い」だったそうで、麻雀、ゴルフなどの勝負事は「自分が勝つまで」やっていたそうです・・・

その考えが、川上哲治の「選手に猛練習を課す」という所に繋がっており「出来るまでやるぞ!体で覚えろ!」と「妥協しない考え」を選手に押し付けていたのでしょう(厳)

これはあくまで猛練習の「予想図」ですが、侍ジャイアンツというアニメで、巨人軍が「逆立ちしてグラウンドを歩いている」シーンがあったので、川上哲治はこれに似た練習をさせていたのでしょう!

結局、アニメにもそういったイメージが持たれていた川上哲治時代の巨人は「軍隊のように厳しかった!」ということですね!!

プロ野球チームに1球団だけ「軍隊」が混じっていたら、そりゃあ、沢山優勝しますよね(笑)

考えながら野球をして、そして血反吐が出るくらいの練習をやってきた川上哲治の巨人軍は「逆に良い結果が出なければおかしいだろ!!」ってことだと私は思いました。

でも、私はその川上哲治の理不尽に近い指導に耐え抜いた「選手達」を一番に褒めるべきだと宣言します!!

正しい宣言をしたところで、次は川上哲治のV9のキッカケとなった、もう一つの理由を探っていきましょう!!

果たして「77」という背番号は、どういった効果があったんでしょうか・・・

川上哲治は背番号を変えたことによってV9が始まった!!

ラッキー7というより、欲深い7だったような気がします・・・

川上哲治は、1965年から背番号を「77」に変更したところ、その年からV9時代が始まり背番号を変えた効果は抜群!だったことはご存知だと思います。

では、何故、川上哲治は背番号を「77」に変更したのかというと「サンセット77」という海外ドラマのファンだったので、タイトルの「77」が気に入ったのが理由らしいのです・・・

また、7と言えば「ラッキー7」という「幸運の数字」の意味が隠されていますよね。

野球におけるラッキー7は、メジャーの試合で7回に打った打球が強風でホームランになって、そのチームが「優勝」したことが語源とされているみたいです(強運)

・・・しかし私は「7」という数字は、とても「欲深い」ものだと思っていたのです。

それは、キリスト教における「七つの大罪」に川上哲治の考え方が似ていたからです!!

七つの大罪で「強欲」と「憤怒」があることは知っていると思いますが、それらを川上哲治の行いに照らし合わせてみます!

川上哲治はV9という勝ちへの「強欲」と、V9を達成させる為に選手への「憤怒」が目立っていたことになります!

つまり、川上哲治は「幸運よりも欲」で、勝ちへの執念を背番号「77」に込めた!

という見方も出来るのかなーと思いました(汗)

では、七つの大罪の一つである「傲慢」についても、川上哲治は関係していたと言われているので、あの「湯口事件」と絡めて見ていきましょうか。

川上哲治 監督 成績

川上哲治と湯口事件の関連性を掘り起こしていく!!

時代の流れだけで片付けるのは、厳しいのではないでしょうか・・・

湯口事件というのは「湯口敏彦」という巨人の選手が、1973年3月22日に「自殺」してしまい、それに対する巨人へのバッシングを指しています。

事件の経緯を見ていきますと、湯口は周囲に期待されながらも、思ったような成績が残せず「首脳陣から厳しい指導」に合い「うつ病」の傾向がみられるようになりました。

それでも湯口は野球を続けますが、2年目のシーズン終了後に「うつ病」と診断され、精神科の病院に入院し「回復→復帰→奇行が目立つ→再度入院→病院で変死」という経緯を辿ってしまったのでした・・・

この一連の事件に対し、川上哲治は、

「巨人こそ大被害を受けましたよ。大金を投じ年月をかけて愛情を注いだ選手なんですから。」

と湯口敏彦が亡くなってしまったことに対して「文句」を付け始める始末だったのです!!

その後、湯口が「自殺」したことが明らかになり、マスコミを中心に巨人へのバッシングが強まり、1973年のドラフトで7人を指名しましたが、4人には「入団拒否」されてしまう始末だったのです(当たり前)

結局。この事件に関して川上哲治は「不問」とされ、この事件は風化していったのでした・・・

この事件は「うつ病」という病気に対する「関心」が低かった時代に発生してしまったので、川上哲治も「上記のような発言」や「責任逃れ」をすることが出来たんだと私は思います。

ただ、川上哲治がこの事件に関わっていたかの有無に関係なく「巨人こそ大被害を受けましたよ。」という発言は「本当に指導者なのか!?」という疑問が湧きました(怒)

名将川上哲治の黒歴史に触れていきましたが、名言はしっかりした内容を選定しましたのでご安心ください(汗)

最後は、川上哲治の「良い所」を見ていきましょうか!

川上哲治の名言に注目し名将となった理由を探し当てよう!!

良いことが言えない指導者が、V9なんて達成できないはず!!

ということで、川上哲治の名言は「素晴らしい」ものばかりなので、じっくりとお楽しみください!

  • 疲れるまで練習するのは普通の人。倒れるまで練習しても並のプロ。
  • 企業に勤めると、冷や飯を食わされるときもある。成功する人とは、この冷や飯を上手に食べた人であるといってよい。
  • 無駄になる努力はない。
  • 自分の想念を「無の境地」に置けば、問題の所在が良く見えるようになります。
  • プロ野球選手は野球だけでなく人格的にも社会で認められるようでなければいけない。

ストイック過ぎますね、プロ中のプロの考え方ですよ(極厳)

ただ、そういった「偏り過ぎた」川上哲治の考え方が、湯口事件を起こしてしまった原因なのかなーと思いました(汗)

また最後の「人格的にも社会で認められるようでなければいけない。」は、川上哲治本人が出来ていなかったんじゃないかと・・・

でも、本当に軍人上がりの軍人的指導法だったことが川上哲治の名言から読み取れましたよね(汗)

ちなみに私が川上哲治の下で、野球を学ぶことになったら「2時間」ぐらいで逃亡すると思います(脆弱)

川上哲治 監督 成績

川上哲治の監督の成績はV9!もはや超える監督は皆無である超偉業を堪能!のまとめ

最後まで読んで頂きありがとうございます。

川上哲治の監督時代ですが、予想通りの結果であり、もの凄く厳しいやり方だったということですよね。

ただ、この厳しいやり方によって、川上哲治の指導法に「NO」を突き付ける事件も出てきましたが、時代の流れによって責任を取ることがなかったのは、心苦しかったですね・・・

厳しい言い方ではありますが、川上哲治が成し遂げたV9を含む「巨人最強黄金時代」は少なからず「犠牲の上」にできた、悲しい一面も持っている結果だったのでしょう。

しかし、それでも川上哲治がこの「大義」を成功させた裏には「目的に向かって真っすぐ進んだ、揺るぎない心」があったからこそだと思っています!

そして、川上哲治が成し遂げたこの結果は、ずっと「偉業」として語り継がれるはずです!!