「中日のイメージは乱闘と最近弱くなったなぁ・・・が強いんだけど、他に何かあるかな?」

そうですね、私も最近の中日に関しては弱くなったなぁ・・・が印象深いかもしれません(汗)

しかし、強かった時代があったことは確かですから、中日はこのままBクラスをさまよい続けるチームでは無いことを知って頂きたいのです!

「俺だって落合監督時代の中日が強かったことは知っているけどさ、今はさ、選手も監督もコーチも違う訳だから、過去の成績はあんまり関係ないんじゃないの?」

いやいや、やっぱりイメージって大切ですから、良いイメージを持つことで中日の選手が持っている「内に秘めた」力を発揮させるいい薬になるかもしれないんですよ!

「あーあ、今年もBクラスかぁ・・・」なんて思ってたら、中日は一生Bクラスですから、まずは意識改革の一環として、中日の歴史を振り返っていきましょう!!

もちろん、野球ファンのあなたも中日に対するイメージを「良い」方向に変えてもらいたいと思っているので、まずは、誰もが知っている中日の伝説的出来事を見ていきましょうか!

伝説を通して、中日のイメージに革命を起こしましょう!!

中日の歴史の中で常に目立っている出来事はこの3つに絞られた!!

中日の良し悪しを吸収していきましょう!

その上で中日に対するイメージを固めていってください!!

これを見れば中日マスターに一歩近づく、至高の3つの出来事は以下になります!

  • 中日史上初のセ・リーグ連覇!!
  • 超激戦!延長28回の軌跡!!
  • 中日には星野仙一傘下の乱闘要員が存在していた!?

まずは、中日のセ・リーグ連覇について見ていきましょう!

中日史上初のセ・リーグ連覇!!

やはり落合博満は名将だったのです!!

中日ドラゴンズは、2010年と2011年に「球団初のセ・リーグ連覇」を達成しました!

この偉業を成し遂げた偉大なる監督と言えば「落合博満」であることは、誰でも知っていますよね!

落合博満の監督の成績が驚異的!野球の情熱を選手に与え続けたオレ竜采配!

ロッテで3度の三冠王に輝いた落合博満ですが、4対1のトレードで中日に落合博満を引き寄せた「星野仙一」の功績も大きいと私は思います!

その星野仙一ですら、セ・リーグ連覇を未達成となっているので、中日にとってのセ・リーグ連覇は歴史に残る「偉業」だと私は位置づけました!

そして落合博満は中日の監督の中で「最強の名将」であることは間違いありません!!

上記のリンク先を見れば分かってもらえるはずです!!

超激戦!延長28回の軌跡!!

プロ野球史上、最も長い延長記録です!

これは、1942年5月24日に行われた大洋対名古屋(中日の前身)の試合での出来事です。

大洋の先発は、鉄腕「野口二郎」で、名古屋軍の先発は、ミスタードラゴンズ「西沢道夫」となり、試合は9回までに4対4と、どちらのチームも均衡を破れずに試合が進んでいました。

しかし、9回以降はどちらのチームも点を入れることなく、0行進が進み・・・

なんと「28回」まで続いてしまったのです!!

結果、日没コールドにより引き分けとなり、野口二郎は「344球」西沢道夫は「311球」を投げ込み、激闘を耐え抜きました!!

中日の歴史ある選手は、先発投手として「311球」も投げたんですよ!

普通だったら肩壊しますけど、昔はこれが普通だったのです!!

1試合で3~4試合分投げた西沢道夫には、中日からステキなプレゼントがあったらしいので、それは「永久欠番の項」で確認しておきましょう!(ほぼネタバレ)

中日には星野仙一傘下の乱闘要員が存在していた!?

中日の鉄砲玉トリオです!!

風の噂ですが、中日の第一次星野仙一政権下(1987-1991)には、3人の「乱闘要員」がいたと言われています!

その選手とは・・・

  • 小松崎善久(1985-1989)
  • 岩本好広(1987-1990)
  • 仁村薫(1988-1990)

中日ファンじゃなければ「誰だ?」というレベルの選手なのです!!

それもそのはず、3人が中日に在籍していた時は、一軍での試合出場が毎年「100試合以下」となっており「〇〇要員」じゃなければ話が通らない存在だったのです!

試合にはあまり出ませんが、乱闘の場合は誰よりも早くマウンドに駆けつけ、抵抗(攻撃)または、中日の投手の代わりにボコボコにやられる役もやっていたそうなのです!!

体を張る時は、スタメンの選手よりも張っている場合があった、中日の「乱闘要員」なのでした(怖)

星野仙一の監督の成績は闘将の軌跡!選手に拳と鞭は熱血監督の流儀だ!

なんだか中日の歴史は「体を酷使する」出来事が多かったように見えますが、頭だってちゃんと使えば落合博満のように素晴らしい結果だって残せるぞ!ってことですね。

では、これまでの中日の順位を振り返って、落合博満監督時代以外にも好成績を残していたことを確認してみましょう!

元々ロッテの選手が、歴史ある中日OBの監督の成績に勝てる訳がない!!

・・・・のでしょうか?

中日 歴史

中日のこれまでの順位は強かった時代を思い出す良い歴史の勉強になるはず!!

セ・リーグでは常に2番手だった!

では、中日ドラゴンズのこれまでの順位をまとめてみましたので、以下をご覧ください!!

※1950年から2016年までの67年間の順位の合計

1位:9回(日本一2回)
2位:24回
3位:13回
4位:5回
5位:10回
6位:6回

ほら、やっぱり強かったんですよ!

といいつつ、中日の1位が少ないのは巨人が「36回」も取っているから、そのしわ寄せが「2位:24回」に来てしまったからだと私は見ています!

ちなみに中日監督別「優勝回数ランキング」を見てみると、

1位:落合博満(4回、日本一1回)
2位:星野仙一(2回)
3位:天知俊一(1回、日本一1回)
4位:与那嶺要、近藤貞雄(1回)

と、日本一獲得監督は好評価としましたが、やっぱり落合博満が中日のNo.1名将だったんですね!

落合博満退任後は順位が下降してしまい、2013年からはBクラスをウロウロするようになり、2017年現在は「プチ暗黒時代」になっているような気がします・・・

でも、現在の中日監督森繁和は、落合博満の参謀として支え続けてきた実績があるので、就任2年目以降(2018年~)に期待しましょう!!

落合博満の中日での背番号6は「永久欠番」にした方がいいと思うんですが、中日フロントが許してくれないと思うので、既に永久欠番とされていた選手を見ていく事にしましょう!

既にネタバレしているかと思っているのですが、新たな気持ちで次の項を読んでもらった方が楽しいはずです!!

中日の歴史の中で永久欠番選手は意外と知られていないのではないか!?

この二人を知っていれば真の中日ファンで間違いありません!!

中日の黎明期を支えた2人の永久欠番選手は、

  • 背番号10、服部受弘(つぐひろ)
  • 背番号15、西沢道夫

まずは、背番号10、服部受弘から見ていきましょう!

背番号10、服部受弘(つぐひろ)

ほとんどのポジションを守れる非常に稀な選手!

服部受弘は、1939年に名古屋軍に入団し、捕手として活躍していました。

戦争を終えての1946年には投手として中日を引っ張り、時には捕手も行い、重責を2つ背負うようになりました!

その後、三塁手や外野などのポジションも兼任し、服部受弘は「投手、捕手、内野手、外野手」をこなす、中日のスーパープレイヤーという存在だったのです!

その功績が認められ、1960年から服部受弘の「背番号10」は永久欠番として、中日の歴史に刻まれることとなりました!

背番号15、西沢道夫

初代「ミスタードラゴンズ」だからこそ、永久欠番!

西沢道夫は、1937年の秋名古屋軍で投手として初先発を行い、1940年には「20勝」を獲得し、チームの中心的存在になっていきました!

終戦後の1946年、戦時中に肩を痛めたおかげで満足に投げれることが出来ず、打者に転向することとなりました。

1950年、西沢道夫は「打率.311、46本、135打点」を記録し、大打者に転向することが出来たのです!!

西沢道夫は「投手として20勝」「打者として40本以上」を記録した、プロ野球史上唯一の選手であり、中日はその功績を認め「ミスタードラゴンズ」と「永久欠番15」の称号を与えることにしたのです!

永久欠番の両選手は、戦前と戦後の中日を支えた、中日の基礎となった選手であったと私は思っています!

要は「投手と野手、兼任するぐらいの気持ちで野球に打ち込め!!」ってことを、服部受弘と西沢道夫は伝えたかったのかもしれませんね・・・

私もあなたに伝えたい中日の歴史がありまして、それは、巨人と優勝を最後まで争った「10.8決戦」です!!

果たして中日は、どのようにして巨人を倒そうと思っていたのでしょうか!?

中日 歴史

中日の歴史の中で一番熱く燃えていた試合は10.8決戦で決まり・・・!

中日の歴史を超えて、野球界の歴史に残った伝説の試合です!!

1994年10月8日、69勝60敗同士で並んだ中日と巨人、この試合に勝った方が「リーグ優勝」となる大一番が始まったのです!!

中日の監督は「高木守道」巨人の監督は「長嶋茂雄」であり、試合前に長嶋茂雄がこの試合を「国民的行事」と表現した通り、ナゴヤ球場はもの凄い熱気に包まれていました!

中日の先発は「今中慎二」であり、94年の対巨人戦の成績は「5勝2敗」と相性がいいことから、中日優勝の期待度は高かったのです!

実際の試合は巨人に先制されてしまい、今中は5失点で4回裏代打交代で降板し、後続の投手はなんとか1点に抑えていました。

しかし、巨人の「槙原寛己」「斎藤雅樹」「桑田真澄」の「投手三本柱」リレーを打ち崩すことが出来ず、中日は3点を入れるのが限界だった為、6対3で中日が破れてしまい、巨人の優勝が決まってしまいました・・・

敗因としては、巨人キラーだった今中慎二が思ったような投球では出来なかったことと、3回表に3点取られた時点で降板させなかったことが、大きな要因だと私は思います。

でも、ここまで来たら「誰が悪いんだ!?」っていう犯人捜しは無粋ですし、巨人はビジターで、しかも相手投手は巨人キラーなんですから、それを打ち崩したことを褒めてやるべきですよね、野球ファンと中日ファンは。

中日の歴史の中で、多くの野球ファンの思い出となった激戦があったことは、凄く喜ばしいことであると私は強く思っています!

・・・最後は、激戦と無関係の中日のマスコット、ドアラについて見ていきましょう。

中の人も可愛らしいといいですね・・・

みんな大好き!中日の歴史で最強の愛らしさを持つドアラについて斬る!!

年収はパン(笑)

中日のマスコット、ドアラと言えば1994年に初登場し、その人気は徐々に昇竜していき、2007年には「Yahooで行われた球団マスコット人気ランキングで1位」を獲得し、世間から認められるようになってきました!

また、2010年からドアラはブログを執筆しており、現在でも続けているので、私の良き好敵手となっているところです(将来的に)

ここで、簡単にドアラのプロフィールを見てみましょう。

年齢「アルコールOK(被選挙権があるかどうかは不明)」歳
身長「アジアの頂点」cm
体重「圧倒的な存在感」kg

とおふざけ感MAXなのですが、中日のマスコットのくせに「味噌カツ」は苦手らしいです(笑)

私もそんなに好きじゃないです、ソースをかけたとんかつが食べたいです。

マスコットなので基本誰とも喋らないそうですが、落合博満とだけは喋るらしく、私は「ドアラは三冠王の偉大さについては理解している」と見ているので、もしかしたら中の人は「元プロ野球選手」かもしれません・・・

元プロ野球選手の可能性を秘めつつも、ドアラの年収はパンとなっていますが、食パン一斤ぐらいの厚さの札束だったら、私はもの凄く欲しいです!(だれでもほしい)

中日 歴史

中日の歴史は名古屋の星!強豪時代を思い出し再び優勝へ昇竜するしかない!のまとめ

最後まで読んで頂きありがとうございます。

中日の歴史を一緒に見てきましたが、だんだん強くなってきて、最近また弱くなってきている、といったところでしょうか。

私は、2017年の中日に対しては「2018年に向けての下準備だから、6位でもいいよ。」って考えなんですよ。

また、教養の一環として、中日の歴史に触れる、私のブログを読むなどの時間を確保してみるのはどうでしょうか!?

中日ドラゴンズ関係者からのお返事をお待ちしております!!