「郭源治?・・・その選手は知らなかったなぁ。中日のストッパーと言えば、与田か岩瀬ぐらいしか知らなかったけど、郭源治もその二人に匹敵するような選手だったの?」
中日の郭源治は元々先発投手だったのですが、チーム事情によりストッパーに転向し、その起用に応えるように2度の「最優秀救援投手」を受賞しました!
従って、郭源治は「与田剛」と「岩瀬仁紀」の名ストッパーに匹敵するほどの活躍をしていたのです!
また郭源治は、闘志あふれる投球で、1982、88年の中日のリーグ優勝にも大きく貢献することが出来ました!
「へぇ~郭源治は結構凄い投手だったんだね。中日の助っ人投手でここまで活躍した選手もあまりいなかったと思うから、星野監督もさぞかし嬉しかったはずだな。」
そうですね、郭源治のストッパー転向を提案したのは星野監督ですから「闘将」の闘志を上手く引き継いだ形になりますよね!
闘将のお墨付きの郭源治ですが、現在は故郷の台湾野球の為に色々と恩返しをしようと思っているみたいですね(驚)
そんな郭源治の現在にも目が離せないところですが、まずは郭源治が具体的に中日へどのように貢献したのか見ていきましょうか!
私も闘志あふれる勢いで郭源治の凄さをお伝えしていくので、野球ファンのあなたもその気迫に負けないようにしてください!!
目次
中日郭源治の成績はストッパーになったことで大きく進化した!!
中日一筋16年のプロ野球人生は伊達じゃありません!!
そんな飾りじゃない男、郭源治の球史を、
- 先発としても活躍した、プロ1年目からプロ6年目
- ストッパーに転向し力を発揮した、プロ7年目からプロ16年目の中日退団
でお伝えしていきます。
まずは、先発投手時代の郭源治を見ていきましょう
先発としても活躍した、プロ1年目からプロ6年
辛い生活環境の中でも、しっかりと成績を残しました!
郭源治は「台湾」出身であり、中日に入団する前は「兵役」についていました(凄い)
郭源治のプロ1年目(1981年)は、先発投手として「1勝2敗、防御率6.43」という成績で「助っ人」としては力不足であり、しかしも不慣れな日本の生活に「ノイローゼ直前」まで追い詰められたみたいです(泣)
それでも郭源治は、2年目以降には先発ローテーションの一人となり、平均で「勝率.500台、防御率3点台」という先発投手としては合格である成績を、プロ6年目(1986年)までに残していきました!
また、1982年の中日のリーグ優勝にも、郭源治は先発投手として貢献することが出来ました!
こうして見ると、郭源治は「先発として不適合だった」という訳では無く、ローテーションをしっかり担える優秀な投手だったんですね!
私はてっきり、先発投手でダメダメだったからストッパーに回されたのかと思っていました(汗)
不慣れだった日本の生活も、郭源治はこの間に克服したと私は耳にしているので、野球と私生活の両立は「いばらの道」だったのでしょう(トゲ痛)
ストッパーに転向し力を発揮した、プロ7年目からプロ16年目の中日退団
ストッパーとして中日に貢献しましたが、故郷への恩も忘れていませんでした!
プロ7年目(1987年)に中日は、ストッパーの「牛島和彦」がトレードでロッテに行ってしまったため、この年からの中日新監督「星野仙一」が郭源治をストッパーに指名しました!
この起用に応える為に郭源治は「59登板、26セーブ、防御率1.56」の成績で、ストッパーとしても合格点を叩き出すのでした!
しかし、プロ10年目(1990年)に郭源治は自身のケガと新たなストッパー「与田剛」の躍進もあり、再び先発投手に戻され「最優秀防御率」の獲得など活躍も見せますが、
「良い状態のピッチングを出来るうちに、台湾でプレーして台湾球界に貢献したい」
という理由でプロ16年目(1996年)に中日を退団することになりました・・・
先発でもストッパーでも十分に力を発揮することが出来たんですね、郭源治は。
郭源治は監督の難しい注文にも柔軟に対応し、かつ結果を出す選手は、チームという「組織」では貴重な存在ですよね(褒)
見知らぬ地でのプロ野球生活に苦戦しながらも、それでも期待通りの活躍を収めてきた郭源治は私から見ても素晴らしい「助っ人」ということがわかりました!
また、郭源治が16年という年数を中日で全うしたことも高評価の一つであり、プロでそこまでの年数を刻むのは「実力と精神力」あっての結果だということですね。
私は郭源治の「精神力」にも目を付けており、闘志を前面に押し出す郭源治の投球方法は数字以外にどんな結果を残していったのでしょうか?
では、郭源治の投球方法について私と一緒に見ていきましょうか!
中日郭源治の成績は闘志と情熱のクロスパワーによる投球の結果だ!!
勝つために吠え続けました!!
郭源治の投球スタイルと言えば「闘志と情熱を併せ持った力の投球」だと私は思っています。
三振を取ればマウンド上で吠え、また、試合終了時には「郭ダンス」と呼ばれるガッツポーズを取り、郭源治は存在感を前へ前へと出していきました。
また、来日当初の郭源治は自分が試合で負けてしまうと、
「左手小指を刃物で切り付け、血を付けた手紙を台湾に住む姉に送っていた!!!」
と噂されるぐらい、自分に厳しい一面も郭源治は持ち合わせているのです(厳)
郭源治は一方で野球理論を軸にして、最高で151km/hの速球を中心にスライダーとフォークを織り交ぜ、相手打者からアウトを取っていきました!
しかし、郭源治の「露骨な感情表現」はストッパー転向時に「大きな弱点」とされ、野球評論家から色々と指摘を受けたみたいですが、郭源治にはそんな「たわごと」は通用しませんでした!
その「負けてたまるか!!」という郭源治の気迫が、プロ7年目(1987年)とプロ8年目(1988年)の「2年連続、最優秀救援投手」を獲得することになるのです!
私は、プロ野球に進んだ郭源治にはもう「野球」しか残っていなかったと感じました。
きっと「野球で活躍して、台湾の家族の為にもいっぱい勝って、稼がないと!!」
という思いが郭源治の根底にあったのでしょう!
だから郭源治は負けないように、そして自分を高めるように「感情を全開」して、常日頃から自分に「俺は誰にも負けない」ということを言い聞かせていたと私は思いました!
マウンド上では常に感情を全開にしていた郭源治ですが、実はとある年は「泣いてばかりいた」らしいのですが、郭源治ファンのあなたはご存じだったでしょうか?
涙にも色んな感情があるかと思いますので、郭源治の「泣いた年」を私と一緒に見ていきましょう。
中日郭源治の1988年は喜怒哀楽が特に激しかった年だった・・・!
無念の涙、嬉し涙、悔し涙が交わっていました・・・
1988年と言えば中日がリーグ優勝をした年ですが、では、何故そんな記念すべき年に郭源治は泣いてしまったのでしょうか?
それでは郭源治の「3つの涙」を確認していきましょう。
1つ目は、郭源治の弟が同年に「交通事故」で亡くなってしまい、弟を看取った直後の試合でストッパーとしてチームを勝利させ、ゲームセット時に星野監督から「弟は見ていたぞ」とボールを渡された時に「無念の涙」を流しました・・・
2つ目は、郭源治がストッパーとしてセ・リーグの優勝を決めた時に「嬉し涙」を流しました(歓喜)
3つ目は、日本シリーズ第5戦目の9回裏に、郭源治が西武の「石毛宏典」から「西武日本一を決める決勝点となった」同点ホームランを打たれてしまい「悔し涙」を流しました(号泣)
郭源治の涙でよかったことは、中日のリーグ優勝だけでしたね(涙)
また、忘れたくても忘れられないことばかりですし、そして「忘れてはいけない」ことばかりでもあるので、郭源治は3度も泣くことになってしまったのでしょう・・・
泣くことは決して悪いことでは無いですし、素直な感情でちゃんと泣けることが「血の通った人間」としての証明になりますから、郭源治は「裏表が無い立派な人格」だと私は思いました!
素晴らしい人格をもつ郭源治ですが、そんな思いが今度は「故郷への恩返し」に繋がることになりました!
果たして郭源治は故郷の台湾に対して、どのような恩返しをするつもりなのか注目して次の項へ進んでみてはどうでしょうか!?
中日郭源治の現在は台湾野球の未来の為に貢献しようとしている!!
指導者としての一歩を踏み出しました!
2017年2月7日、郭源治は楽天のキャンプ地に出向き、
「日本の新しい野球を勉強したい」
ということで郭源治は期間限定の「研修コーチ」に就任しました!
何故、中日ではなく楽天なのかというと、恩師「星野仙一」が「楽天野球団の取締役副会長」に就任しているからだと私は推測します。
楽天のコーチには中日時代のチームメイト「与田剛」がいることもあり、郭源治は今の中日より楽天の方が「知っている人が多い」という点と、星野仙一の力を借りた為だと私は思っています(汗)
コネを使ってまでコーチ研修を行った郭源治ですが、実は、現在「台湾野球での指導者」になっており、その勉強の一環で研修を行ったらしいですね。
うーん、郭源治の働きは素晴らしいんじゃないんですかね(感心)
後輩を育てるという郭源治の意思が、こうやって誰でも真似出来ない行動に繋がっている訳ですから、郭源治の指導者としての姿勢は「本物」という気迫がヒシヒシと伝わってきます!
台湾の英雄「郭泰源」が指導者としてイマイチだったので、郭源治にはそれを凌駕する指導者になってもらいましょうか!
西武郭泰源の成績と現在を追跡!13年のプロ生活は最強助っ人投手の証だ!!
私と最強監督になることを約束した郭源治ですが、実は、彼の愚直な姿勢は生い立ちに影響していることは知っていましたか?
郭源治の生い立ちを見て、野球ファンのあなたも「ハングリー精神」とは何だ?
ということを、今一度考えてみましょう!!
中日郭源治のハングリー精神の元となった生い立ちに注目!!
貧困生活が郭源治のハングリー精神を強くしました!
郭源治の生まれは台湾の「農家」であり、幼少期は竹で編まれた約6坪の小屋に親子9人で暮らしていたみたいです(狭い)
草で巻いたボールで野球の練習をしながら、有名リトルリーグチームの「金龍隊」に入団して、そこから色んな人に支援をしてもらいながら、郭源治は中日入団まで進むことが出来たのです!
郭源治は中日と入団契約後、「数千円の金額と風呂敷包み1つだけ」持って日本の空港に現れました。
また、郭源治の契約金(約1250万円)の半分はリウマチだった父親に譲り、残りの金額は、台湾の家族へのマンション購入費としてほとんどなくなってしまいました・・・
入団当時からお金が無かった郭源治は貧困という生い立ちに負けることなく、最終的には「1億円」プレイヤーとして登り詰めるのです!
台湾や中国などの貧困層は日本とは違い、底が見えない程のレベルであり、とてもプロ野球を目指す気にはなれない環境だったと私は思っています。
そんな環境下でも郭源治は腐る事無く、野球に真摯に向き合い、そして数少ないプロ野球への切符を手に入れることが出来たんでしょうね(偉い!)
郭源治のハングリー精神は、投球スタイルと同じように常に前へ前へと止まる事無く、そして「家族の為に大金が欲しい」という希望を持ち、その思いを実現することになった一番の要因だと私は思いました。
中日郭源治の成績と現在に興味あり!情熱の投球と無尽蔵の気力が郭の原点!のまとめ
最後まで読んで頂きありがとうございます。
郭源治の情熱と無尽蔵の気力は、彼の生い立ちとプロ入り後の様々な境遇が生み出した結果だったのではないでしょうか。
しかし、どんな出来事にも折れることなく郭源治は投げ続け、現在でも野球の為に自分の歩みを進めている状態です!
郭源治氏の野球人生が今後昇華出来るように、私は応援していきます!!