「プロ野球の監督ってさ、有名な監督は何年もやっているイメージがあるけど、目立たない監督はいつの間にかクビになってたりして、結構入れ替わりが激しいイメージなんだけど、実際はどうなの?」

そうですね、結果を出し続けた監督はその名と記録が残りますが、結果が全く出なかった監督は、世間から忘れられてしまう場合が多いです。

つまり、監督も選手と同じように、結果を残していかなければ「即刻クビ」という形になりますね(恐)

監督というのは、野球の技術以外にも「選手の能力」「選手の適応」「選手との信頼」等々、選手を中心に沢山理解しておかないと、結果が出ない仕組みになっています。

これらをクリアした監督のみに、「有名」「優勝」「最強」の称号を得ることが出来るのです!!

「選手以上に監督の方が大変だな。その中で一番優秀だった監督は、もの凄い人なんだろうね。なんか仏に近いような人物なのかなー(笑)」

沢山の野球ファンが様々な「最強監督」をイメージしていると思うので、「最強監督」の意見を統一することは難しいですかね(汗)

でも、私が推薦する「最強監督」には野球ファン全員が納得してくれる!!

と大きな声で、訴えたいですね!!!

では、その訴えを野球のファンのあなたと一緒に見ていきましょうか!

プロ野球の監督の歴代の中で最強の監督は間違いなくこの人だ!

弱いチームを強くするのが監督の使命です!!

それを実現出来たのが「野村克也」です!!

私が思う監督とは「限られた人材で、予想以上の結果をチームに出させること」が出来る人物です。

野村監督はそれが出来た数少ない「名将」の一人ではないでしょうか!

野村監督の「改革」の一部を挙げますと、

  • 理論をぶち込むID野球のミーティングを導入
  • 楽天に清原を入れなかった英断

の2つの改革になります。

まずは、ID野球について見ていきましょう。

理論をぶち込むID野球のミーティングを導入

分からなければ、文字にしてデータをぶち込むしかない!

それがID(Important Data)野球!

これはヤクルトの監督時代に取り組んだ改革でした。

監督就任当時のヤクルトは「勝つ」という意欲が低く、万年Bクラスにいる飛べない燕状態でした(汗)

「負けても飯が食えりゃいいや」という選手の考えを、野村監督のIDミーティングによって改善させました。

ミーティングの内容は、野村監督が長年培ってきた「洞察力」から生みだされた「野球データ」を選手全員に教え込む、という内容でした。

そのミーティングの様子は「学校」のようで、野村監督が何を言っているのかよくわからない選手は、野村監督が言ったことと書いたことをノートを取って、ミーティング外の時間にノートを見直すという内容でした。

ID野球の効果もあり、野村監督時代のヤクルトは、リーグ優勝3回、日本一3回を達成することになります!

野村監督は、監督と同時に「先生」の役割も果たしていたのです!

楽天に清原を入れなかった英断

老人になっても「洞察力」は衰えていません!

楽天の監督に就任したのは2005年、野村が70歳の時でした。

当時、チーム「改革」の一環として、楽天オーナー三木谷が「清原を入れたらどうだ」と提案したところ、野村監督は、

「ピアスに代表されるように、精神構造が乱れている。チームの統制が乱れるので、指揮官としてはやりにくい」

と発言し、結局「清原獲得」は無かったことになりました(汗)

流石、野村監督と言わんばかりの発言でした!

後に発覚する清原の「精神構造が乱れている」という部分をすでに野村監督は察知しており、楽天の田中将大の育成等に悪影響を与えることなく済んだのでした・・・

その当時「めちゃくちゃ弱かった楽天」がさらに弱くなってしまう可能性があったので、結果論ではありますが、本当に野村監督の「英断」だったと私は思いますね。

結局、監督として楽天の優勝は実現出来ませんでしたが「田中将大をメジャーリーガーに育てた」という実績は大きいのではないでしょうか。

野村監督の改革の一例を紹介しましたが「弱いチームだからこそ、やるべきことはあるだろう!」という考えが伝わってきましたよね。

ただ単にボヤいているおじいちゃんでは無いので、少しでも「お話を聞いてあげる」と野村監督の凄さが伝わってくるはずです!

そんなボヤきの達人に負けていないプロ野球界の歴代の監督たちは、どういった結果を残してきたのでしょうか。

「勝利数」という結果を中心に、名監督たちの歴史を見ていきましょうね!

プロ野球 監督 歴代

プロ野球の監督の歴代で最も勝利数を挙げた監督トップ3!

いにしえのプロ野球を支えた方々ばかりです!

そんな伝説の監督は、

  • ミスターホークス、鶴岡一人(かずと)
  • 知将、三原脩(おさむ)
  • 川上哲治の師、藤本定義

の3人になります。

まずは、鶴岡監督から見ていきましょうか!

ミスターホークス、鶴岡一人(かずと)

「グラウンドにはゼニが落ちている。」と名言を残しました!

鶴岡監督は1946年から23年間全て「南海ホークス」で監督として指揮を執り、通算勝利数「1773勝」はプロ野球で歴代1位となりました。

合わせて通算勝率「.609」とプロ野球で唯一の通算勝率「.600超え」を達成しました!

鶴岡監督は、当時初めてデータ野球を取り入れて、プロ野球初の専属スコアラーを誕生させました。

このデータ野球を真似て「野村克也」がID野球を始めたとも言われています。

また、鶴岡監督は育成枠のスカウト、外国人選手の管理など現代の野球に通じる部分の「先駆者」だったのです。

この用意周到なやり方(がめついとも言われている)が、上記の「グラウンドにはゼニが落ちている。」に繋がり、いくらでも金を回収出来るような常勝軍団を作り上げたのでしょう。

ちなみに「グラウンドにはゼニが落ちている。」という名言は「グラゼニ」という漫画のタイトルの元になっていますので、興味のある野球ファンは読んでみましょう(宣伝)

知将、三原脩(おさむ)

超一流の「超二流」の考えとは?

三原監督と言えば巨人や西鉄、大洋などの監督に就任し、1947年から27年間の通算勝利数「1687勝」のプロ野球歴代2位を記録しました。

三原監督の代名詞である「流線型打線」とは、2番打者に「強打者」を置き打順のセオリーを無視した打線を組んでいたことで有名です。

この「流線型打線」は2017年度の楽天の梨田監督に受け継がれていますよね。

また、「超二流」という考え方を持っており、走塁、守備は全くダメだが、打撃だけはいい「一芸に秀でた」選手を積極的に起用していました。

また、運のいい選手も起用していたのですが、知将、三原監督なりの緻密な計算に基づいたチームを作っていったのでしょう。

一見、運のいい選手の起用とかふざけているようですが、こういった起用方法が歴代2位の勝利数を記録しているので、現代の監督にも「多少」は取り入れるようにしてもらうと、観てる方は楽しいです(笑)

川上哲治の師、藤本定義

初代、巨人軍を指揮した監督です。

藤本監督は主に巨人、阪急、阪神を指揮しており、29年間で通算勝利数「1657勝」のプロ野球歴代3位を記録しました。

この勝利数を一番稼いでいたのは戦前の巨人の監督時代であり、時代は1936年から1942年になります。

この当時の巨人は、勝率「.700」を超える「第一次常勝軍団」として名を挙げたチームでした。

また、沢村賞の元となる投手「沢村栄治」が所属しており、現代のプロ野球の礎となるチームでもありました。

ちなみに藤本監督は戦時中に巨人の監督を解任された後、田村駒治郎という実業家の秘書になり、豪邸に身を寄せて戦火から我が身を守ったそうです(汗)

現代の野球の基礎を作った方々ばかりでしたね。

ちゃんと現代にも受け継がれているなんて、野球は本当にタテがしっかりしていますね・・・(汗)

そんなタテ社会のプロ野球ですが、ちゃんと名選手を見つけて育てる技術も継承されています!

では、その技術を大いに発揮したのがどの監督なのか見ていきましょうか。

プロ野球の監督の歴代で名選手を育てあげた監督は誰?

「イチロー」を始め、「野茂英雄」などのメジャーリーガーを育てあげました!

しかし、選手に厳しい一面も持ち合わせていました・・・

その監督は「仰木彬(おおぎあきら)」です!

仰木監督と言えば「オリックス」の監督として有名ですが、その前は「近鉄」の監督をやっており、野茂英雄の育成については「野茂に任せる」といった手法を取っていました。

その手法が野茂に対しては効果的であり、最終的にはメジャーリーガーになるまで成長しました!

また、オリックスの監督時代は、2軍でくすぶっていたイチローを1軍で起用し、イチローに対しても「振り子打法はそのままでいい」と言い、フォーム修正などは行いませんでした。

最終的にイチローは、野茂と同じようにメジャーでも一流の選手として活躍するようになりました!

仰木監督は上記のように、イチローや野茂などの「一流」選手にはほとんどケチを付けなかったみたいです。

そのかわり、結果を出さない選手に対してのシゴきは凄かったらしく、走り込みなどを徹底的にやらせたらしいです(大汗)

また、近鉄時代に代打を告げた選手が試合の流れを把握しておらず、もたもたと代打の準備をしているとその選手に「鉄拳制裁」を食らわせてしまう程「キレやすい性格」でした・・・(恐)

結局は、「練習して結果を出さないとぶっ飛ばすぞ!」という言葉が「練習は適当でもいいが結果は出せよ」という仰木監督の言葉に、見え隠れしていたのだと私は思います。

その意思を読み取り、練習を重ね結果を出したイチローにとっては「唯一の師匠」と呼ばれるような監督になるのでしょうね。

記録と記憶に残っていた仰木監督でしたが、では「記憶」のみに残っていた監督とは誰でしょうか?

私はあの「監督」しかいないと思いますので、はりきって紹介してきますね!

プロ野球 監督 歴代

プロ野球の監督の歴代で記録より記憶に残った監督とは?

広島と楽天で大暴れしていました!

それは「マーティ・ブラウン」です!

ブラウン監督は2006年から5年間、広島と楽天で監督として指揮を執っていました。

その際によくやっていたことといえば・・・

退場を食らうことでした・・・(笑)

ブラウン監督が食らった「退場処分」は歴代最高の「12回」(大汗)

これは、褒めるべき記録ではないのですが、ブラウン監督が退場すると「9勝3敗、勝率.750」と皮肉な結果が出ています(笑)

では、勝率が高い退場劇の一部を見ていきましょうか(笑)

・一塁ベースをグラウンドから引っこ抜き、内野のフェアゾーンに放り投げた。
・自らの足でホームベースを埋め、その上に帽子を叩きつけた。
・退場宣告を受けた直後に二塁ベースを投げようとしたが固定されていたため、結局ベースを引き抜くことができずに退場した。

よく退場内容を確認してみると、ベースを投げたことは1回しかないんですね。

まぁ、1回でも大ごとですし、他1回は未遂もありますからねぇ・・・

ブラウン監督独自の「チームを守るアピール」だったのでしょうか。

ブラウン監督の成績は全てBクラスだったので、大したことありませんでしたが、それ以上に「ダメ」だった監督がいることを知っていますか?

あまり言いたくなかったのですが「最強」とタイトルに書いた以上「最弱」も紹介しないと、バランスが悪いと思いましたので、独断と偏見で「最弱監督」を紹介します!

プロ野球の監督の歴代で最弱の監督なんているのか?

ロッテ暗黒時代を作り上げてしまった監督です・・・(悲)

その監督は「近藤昭仁」です!

近藤監督は1993年から5年間、横浜とロッテの監督として指揮を執っていました。

横浜時代の結果は全てBクラスと結果は出ませんでしたが、「マシンガン打線」に繋がる選手の発見など、後の優勝に繋がる基礎を作ったと私は思っています。

しかし、問題はロッテ時代であり1998年6月12日から破竹の「18連敗」を達成してしまいました・・・(泣)

こうなった原因は色々とあるのですが、私が思う一番の原因は「投手」の起用方法でした。

近藤監督は、先発投手を長いイニングで起用する傾向があり、先発投手の疲れが溜まりやすい状態だったのではないかと私は推測しています。

そんな状態で抑え投手の故障、が発生してしまうと、余計に先発投手を長いイニングで使用してしまいますよね。

その結果、投手の抑えを先発投手の黒木に任せたりしたもんですから、投手陣は「崩壊状態」になってしまいました(悲)

こう見ると「先発投手が悪いのでは?」となりますが、そうならないようにするのが「監督」の責務だと私は強く訴えますね!

近藤監督はロッテ退任時に「もっと強いチームで監督をやりたかった」と言っていました・・・

しかし、この18連敗があったにも関わらず、1位とは「9.5」ゲーム差まで縮めることが出来たので「チーム力」は十分にあったのかと私は思います。

でも!チームが弱いのは「監督の責任」ですからね!!

プロ野球 監督 歴代

まとめ

最後まで読んで頂きありがとうございます。

強い監督、面白い監督、ダメな監督と色々な視点で紹介してきましたが、監督には選手以上の「視野」が必要であることは分かりましたよね。

色々な視点で、色々な問題を発見して、そして解決する。

といったことが監督には必要になります!

これは、プロ野球の監督に限らず、様々な「管理職」で必要なことだと私は思いますので、管理職を目指している野球ファンがもし居れば、この記事から何かを学んで欲しいです(汗)

学んで成功した場合は、私に対して何か「謝礼」など頂けたら凄く嬉しいです!!